幼少の頃より手先が器用で、母親が裁縫をしている横で、見よう見まねで和裁の仕方を覚えた。きれいに縫えた時に誉められるのが嬉しくて、夜も暗いランプの下で研究工夫を重ねた。小学校4年の頃には「もみじのような手をしてよくこんなものが縫えるものだ」と近隣の村人達を驚かした。
14歳のときに突然父親を失った。県立松本高等女学校通学のかたわら、毎日夜になると付近の子女たちに覚えた和裁や、刺繍を教えて日銭を稼いで家族を支えた。自分が頑張る事で家族の笑顔を見ることができる。自分が家族の役に立っているのだ、という実感があった。何より、自分の会得した技術を人々に伝える事で、多くの人に喜んでもらえる事を知った。自分の人生を考えたとき、教師として生きていくことに迷いは無かった。高等女学校を卒業後、4年間長野県で教鞭をとった。その後、同県出身で早稲田大学卒の教師であった土屋梅良氏と結婚することとなった。夫の任地に赴くに従って京都に引っ越した。京都に居を構えてからは子育ての傍ら、京都市経営有済実務女学校で裁縫を教える教師として教壇に立つこととなった。大切な夫と女の子3人と男の子1 人、幸せで充実した時間であった。
だが、幸せな生活も長くは続かなかった。大正9年1月、夫が急逝した。一家の大黒柱を失い、貧苦のどん底に、4人の子供を抱えて途方に暮れた。
これから母として、同時に大黒柱として一家を支えていかねばならぬ。一人の人として、社会の一員としてその責任を全うすることを、心に誓った。
大正12年9月1日昼時、関東地方南部で大地震が発生した。死者・行方不明者は10万人を超えた。逃げ遅れて多くの人が亡くなった。その中には、動き易いとは決して言えない和装の女性たちも多く含まれていた。 「もっと動きやすい服であったならば、助かったかもしれない」と思った。 しかし、洋服は華族や働く女性を中心に少しずつ浸透し始めていたとはいえ、当時は洋服が呉服屋で売られているわけでもなく、業者へ仕立ての注文をするにも非常に高価であった。洋服の普及には、家庭における洋裁の知識・技術が不可欠であった。その技術を自分が教える事ができると閃いた。
「専門教育の学校を作ろう!」
洋装の普及を通して、女性の社会進出の推進役になりたい。これこそが自分の使命だと感じた。
「職業に繋がる技術を体得する事で、人は社会人としての人格と、自分の人生を選び取る自由を得る事が出来る。」
裁縫の技術を持っていたからこそ、仕事をすることができ、自分の意思で人を支えるという道を歩んでくることができた。このことは、自らの身をもって人生訓として会得してきたものである。
大正12年京都の地に、女教員として最初に、洋服を着用した。 京都という着物文化の根付いたこの土地で、女性が洋服を着るという事が何を意味するのか。
理解されなかった。悪評もたった。旧態依然とした服装を是とする日本婦人の頭をうちくだくのは並大抵の事ではなかった。ただ、そう、熱に浮かされていたのかもしれぬ。使命感という熱である。
どの様な事を言われようとも、人々の生活改善の一着手として服装改良の普及のために、色々な所で講習会を開催した。華族会館をはじめ、各地の婦人会や新聞社、学校の保護者会、呉服店のお客さま方・・・。 「世界的に積極的で生き生きとした国民をつくる上で服装の改善が肝要である」
「国民の体格の向上を図るにはまず服装を改善しなければならない」 「体育衛生上の見地より服飾改良は急務である」 声を涸らして人々に伝え続けた。 寄附をお願いして回った。昼夜寒暑を問わず頭を下げて回った。 想いを受け止めてくれる人も現れ、徐々に賛同者も増えた。
艱難辛苦の末、大正13年春、多くの人々のご支援の賜物として、ついに四条西洞院に本学園の前身なる洛陽高等技芸女学校を創立することができた。
毎日、女性たちに手に職をつけられるだけの和裁・洋裁・裁縫の技術を、教え続けた。
しかし、社会の状況は相も変わらなかった。
女生徒や父兄はただ盲目的に公立へと殺到し、5か年の高等普通教育は完了したところで、社会に乗り出すのに必要な知識も技能もないままに、ただ漠然と進学し卒業した挙句、そこで自分の生き方に悩み改めて進路を定め直す、そのような状況に忸怩たる思いが募るばかりであった。
もっと多くの人々に伝えなければならない。日々、その想いが大きくなっていった。
各地を回って講習会をし続けた。講義の合間を縫って、寄附をお願いして回った。
昭和2年の春、1600坪の現在の第一敷地に第一校舎だけが畠の真中に、やっとの事で出来上がった。当時この地は、見渡す限りの田園であり、花園駅まで見晴らせた。夜中にはキツネやタヌキの出るような淋しい処であった。
学校の生徒も数十名と言う淋しさであった。それでも教員一同、一生懸命であった。人生をかけて将来の社会変革のために学校を拡大したい、という強烈かつ輝かしい希望を目標に、一心不乱に精進した。
昭和4年には幼稚園も併設されるようになった。やがて社会の理解も漸く追い付き、女学校の生徒も300、500、700と毎年百人単位で増えた。それにつれて校舎も第二、第三、第六、第七、第八校舎、体育館と増設し、学校としての体形が完成していったのである。
「生きるための技術が身に付く学校」と人々に言ってもらえる事が嬉しかった。自分がいなくなっても手塩にかけて作り上げた学校が発展する事を願った。人生67年、長く思えるが星のまたたきの様に一瞬だった。
人が自分の人生を主体的に選んで生きていく、 その力を培うお手伝いをしたい。 時代を超えてその想いを受け継ぎ、 今の洛陽総合高等学校がある。 そして、これからも・・・。